1858年、トスカーナ州ルッカの音楽家の家系に生まれたプッチーニは、18才の時ヴェルディの「アイーダ」を観てオペラ作曲家になることを決意し、若きマスカーニと共にミラノで苦学生として学んだ後、コンクールへの応募作品として書いた「妖精ヴィッリ」でデビュー、出版社リコルディの目にとまりオペラ作曲家としてのキャリアをスタートさせる。次の「エドガール」は失敗に終わるがマスネの「マノン」と原作を同じくする1893年初演の「マノン・レスコー」で大成功し、つづく1896年の「ラ・ボエーム」、1900年初演の「トスカ」と傑作を発表、「トスカ」上演のために滞在したロンドンでベラスコの「蝶々夫人」を観劇、その日のうちに楽屋にベラスコを訪ねオペラ化を申し入れたという。
原作はロングによる小説で、主にオペラの二幕と三幕に相当する部分を、蝶々さんと他の登場人物との対話による物語として描かれている。その小説を戯曲化したベラスコは、上演するにあたり当時発達した照明を効果的に使用、子供に星条旗を持たせたりする演出はイッリカ・ジャコーザ台本によるオペラにも引き継がれている。
1904年のミラノ・スカラ座における初演は歴史的大失敗で、プッチーニらによる創作である一幕が長すぎたためだとか、自作に自信のあったプッチーニが「さくら」対策を怠ったためなど諸説があるが、その後のブレッシャ改訂版、ロンドン版、パリ版においてはカットされている日本の情景描写やあからさまな蔑視表現が観客の不興を買ったとの見方がある。現在の上演はパリ版が主流だが、近年ブレッシャ版等の上演も多く行われている。 |